言語

                           


 この論文は私のライフワークであり、平凡な人生の中で唯一の輝きであると自負するものである。これは私の人間としての諦めない心構えと努力が詰まっているものであり、凡庸な私の価値及び人生の全てが詰まっているものである。
またこの論文は、言語の根幹にかかわるものであり、言語に対するオリジナル的エッセンスは十分に書きしるしたつもりであり、言語に対する根本的な本質の解明にとって非常に貢献できる論文であると確信するものである。
表現の出来不出来あろうと思うが、また素人が書いた論文ではあるが、もし世間が閉鎖的でなく、また硬直化していなければ、そして厳正ならば絶対に受け入れてくれるものと確信するしだいである。


Ⅰ  言語理論の試的推論

1  はじめに 

2 言語の恣意性

3  言語の構造と意味

4  人の概念の流れ

5  文法の概念主義的発想

6  概念とは

7 まとめ


Ⅱ  ソシュール構造主義批判
 
 8 ラング、パロール及びランカージュについて
 
 9   主知主義及び言語名称目録観について

 10  連辞連合について
 
11 まとめ

 参考文献 引用文献

総括的まとめ

 
 
               Ⅰ

           言語理論の試的推論
                 
 言語の本質を私なりに考え結論を出したつもりであり、これは全てオリジナルなものである。またあくまで私見であるが本文については、言語の本質にせまるもであり、特に第3項目と第5項目は革新的な考えであり、他の人が今まで考え付かなかった事柄である。非常に価値があると確信するものであり、必ず同意が得られるものと考えるしだいである。
 なお第3項目及び第5項目が私の主目的であり、第1項目、第2項目は第3項目の流れの前段をなしているものである。
 この論文を私の周囲の人に読んでもらうと常に拒否され、変人あつかいの目で見られることも付け加えておく。

1はじめに
 人が会話しまた文章を書く時に言語が意味するもの(以下仮に言語概念ということにする。直観的には言語の意味は概念であるが、今の段階では理論的に真偽を確定できないため、第3項目で確定するまではあくまで仮定として留め置くことにする。)とそれに対応するこの世界の自然的及び物理的なものつまり森羅万象に対する概念、またこの世の社会的及び文化的な物事に対する概念、そしてこの自然的世界と社会、文化的概念の関係の認識、この世界や社会、文化どうしの関係の認識及びこの世界や社会、文化と自己との関係の認識からなる全ての概念、また架空、虚構の創造的概念、感情にうったえる喜怒哀楽に対する概念、快楽や苦痛等に対する感覚の概念など自分自身で感受する概念等、つまり上記のような人の持つ総体としての全ての概念(以下純粋概念ということにする。)に対して、同じ意味を有するが、その形態においてそのあり方があまりにも異なっているという事実は、専門家でないかぎりこのことを人は通常意識しないまま、また問題視しないまま通り過ぎてしてしまうのである。
人は上記のことを意識せず言葉を透明なまま、また無意識に用いて会話し、文章を書いたりまた思考するのである。このことはごく自然なことでありそれはそれでよいのかもしれない。そしてその異なる事実に気づかないか、また疑問を投じることなく活力に満ちた人生を送る人が、ほとんどというより専門家を除いて全てに近いのではないかと思うのである。
しかし自己体験として、私の最初のきっかけは言語概念とそれに対応する純粋概念との関係に対して、同じ意味を有するのにそのあり方があまりにもかけ離れているという事実に、ふとひらめき気付きかなりのショックを受けたのである。一元的でない事項がなぜ一元的な意味を持つに至るのかという事実に対し疑問をいだくようになったのであり、そしてそれに伴って言語に対する不信感に襲われ、言葉を話したり聞いたり、文章を書いたり読んだりすることに、いつも違和感と脱力感と無力感を感じていたという、そういう強い動機が心の根底にあったのである。そしてどうしてもこの疑問に答えを出さなければ、精神的な解放感は得られなかったのである。
言葉とそれが指し示す意味の関係は、ある人は連想または指示と言い(言語概念と純粋概念とのその形態の違い、つまり言語の意味に関心を持つ専門家である学者等数少ない人の中では、通常この考え方をする人が一番多いいのではないかと思う。また言語哲学では指示説を採用している。)、ある人は条件反射と言い、ある人は象徴と言う。しかし本当にそうなのだろうか、連想または指示について言えば連想または指示とは、言葉自体では意味を持たないということであり、例えば「車」や「飛行機」のように単語一つならば連想または指示ですむかもしれないが、しかし会話となると連想または指示で、いちいち意味に立ち戻っていたならば、次に続く新しい概念をも考えなければならないため、かなりのエネルギーを使い、会話どころの話ではないことは確実であり、平常な言語活動は望めないであろう。言語の使用の場に立ち戻り、自分の心に問いかければ、このことは明白であり確かなのである。これは母語話者でない私が、英語を話したり聞いたり書いたり読んだりする時のように、辞書を使ったり、人に聞いたりしていったん日本語に翻訳して初めてその意味を理解するということによく似ているのである。母語話者ならば、言語自体で意味をくみとることが出来なければならないのである。
では条件反射なのか、これは日本の有名なある哲学者が本の中で書いていることである
が、百歩譲って条件反射ならば、聞き手、読み手の場合は、ある発話を聞きある文字を見た場合は、パブロフの犬の実験のごとくベルの音を聞いた犬が、よだれをたらすように、人の会話や文章の意味を理解するということである。しかしベルの音とよだれの関係は生理現象であり、言語活動は思考回路を使う現象である。そこの所を考えると素直にうなずけないのである。人間の言語は母語話者にとって日常的なものであり平易なものであるが、しかしながら生理現象とは異質なものなのである。もし条件反射を主張するのであれば、生理現象ではなく思考回路としての条件反射的言語活動を、それがどのような仕組みで作用するのかを説明する責任が出てくるのである。また自ら話をしたり、文章を書いたりする時、条件反射は適応されはしないのである。これは言語のシステムをあまりにも短絡的に扱っているものであり、説明ができないからこのような欺まんに満ちた答えですまそうとしているのである。
では象徴なのだろうか、もし象徴だとしたら純粋概念も象徴になることができるのであり、言葉のみを象徴と呼ぶことはできない。これもまた言語と意味の関係の説明としては成り立つことができないのである。
私は若かりし頃このような思考錯誤をたどったのであるが、このすえこの疑問に答えをだすのに約5年間の歳月をついやした。言語学はもちろんのこと言語が哲学の問題であると気づいていたが、もうこれで良いと思いそのまま放置しておいたのであるが、後年になり何冊かの哲学書言語学書を読んでいるうちに、言語概念と純粋概念の関係がいまだに解明されていない謎であり、問題であることを知ったのである。(特に言語哲学では意味=指示説に固執しているため、確定記述や記述の束説などでてくるが、固有名詞でさえ説明が困難なように見受けられるのである。)時は過ぎてそしていま63歳にしてその謎の解明結果をやっとまとめあげることができたのである。
物理学の世界では、すべてが一つの根元的なもの、つまり万物の理論に統一されるであろうということである。もし統一されなければ、つまり人間の能力の限界ではなく、この世の仕組みとしてア、プリオリに不可能であるならば、根元的なものが二つ以上あることになり、もしそうだとすれば私たちの世界は、一つの作用ではなく全く性質の異なる二つ以上の作用を受けることになり、必ずどこかで因果律において矛盾が生ずることになるのは確かなのである。
 私の性格からして矛盾が生じる世界には、どうしても我慢ができないのである。本来ならば矛盾が生ずる世界などないのであり、世間でいう矛盾とは見かけ上の矛盾であり、よく調べれば必ず整合性のとれるものなのである。
例えば鳥類の足の指は4本しかないように見えるが、よく観察して見ると足の上の方にこぶのようなものがある。それが退化した5本目の指なのである。それは当然なことである。人間と同じ脊椎動物であり、遠い昔において祖先を同じくしていたからである。奇妙
に見えるものでも、よく観察すると因果的に整合性がとれているのである。
かの有名なアインシュタインも言っていることであるが「神はいくつものポケットを持って我々人間をからかっているわけではない。」と、言語においても、言語概念と純粋概念を比較検討し、統一しなければならないのであり、また文法も言語概念及び純粋概念のもとに統一しなければならないのである

2 言語の恣意性
言語の問題を詳細に述べるならば、ここには二つの問題の捉え方がある。一つ目は言語概念とそれに対応する純粋概念との関係であり、言語概念とそれに対応する純粋概念は、まぎれもなく同じ意味をもっているが、しかしそのあり方において形態は全く異なっている。その両者はどのように結ばれているのか。一元的でない事項が同じ意味をもつとはいかなることであるのか。この問題に答えを出すには当然言語概念を調べればよいのでありこれが二つ目の問題となる。二つ目の問題は言語概念内部における、言語の発声や記述(以下表現面という。)と意味の関係がどうなっているかということである。要するに言語の表現面とそれが指し示す意味とは、必然的なつながりは全くなく恣意的関係でしかないのである(表意文字は除く)。つまり言語の表現面だけを考えると、音声言語の場合は意味とは全く関係がない、発声つまり音であり、文字言語の場合は紙に書いたり石に碑文を刻んだりとつまり光の反射である。この表現面と意味の恣意的関係が、どのようなしくみで必然性を帯びるのかが問題となるのである。第一の疑問のうち純粋概念は、言語概念との対置概念として問題提起することに意味があるのであり、考えるまでもなく純粋概念は意味そのものであり当然疑問の対象とはならない。よってここで第二の問題を解き明かすことができれば、この問題はいっきょに解決できるのである。始めは言語と意味の関係は社会的な約束事(意味=指示説)であったことは間違いないと思われるが、それが定着すると母語話者であれば、言語自体で意味を感じ取り、いちいち言語と意味を対比させていないのであり、人は皆言語の海に埋没して会話したり文や文章を書いたりしているのであり、ここには単なる約束事を超えた何らかの仕組みが新たに生じているのである。またこの恣意性のゆえに、民族によって色々な言語が生じるのであるが、いったんある民族共通の言語に定着すると、恣意的性質が必然的性質にとって替わるのである。
 ここで高名な哲学者の著書の中にある、言語理論の困難性を強調している、二つの興味ある見解を紹介しておこう。一つはソール. A. クリプキの「名指しと必然性」の前書きの部分で書いているのであるが「反対の見解は、われわれの言語と思考は、どういうわけかその区別をきちんとつけることができず、これが当の困難の源であると主張せねばならない。」もう一つはヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の四、〇〇二「個々の言葉がなにをいかに指示しているかを全く知らなくてもあらゆる意味を表現しうる言語を構成する能力が人間にはそなわっている。それはわれわれが個々の音声の発し方を知らないでも、しゃべれることに似ている。日常の言語は人間の器官の一部であって、これに劣らず複雑な構造をもつ。言語の理論を日常の言語から直接引き出すことは、人間の能力をもってしては不可能である。」とある。この二つの見解は言語理論の困難性を説いた、とても興味深いものであるが、私の疑問とぴたりと一致するのである。しかしこの言語の理論の解明は不可能ではないと私は確信するのである。今だかつて解明されていない問題ではあるが、私なりに次の項目で言語の理論を日常言語から引き出してみてみようと思うのである。       

3 言語の構造と意味
 言語学及び哲学において、意味論という言葉をよく耳にする。これは言語の意味とは何かと定義する学問分野であるが、しかしその結論は皆難点があり結局結論は出ない、出ても完璧な解答ではないのである。そもそも言語の意味をダイレクトに定義することは、できないのではないかと思うのである。私の関心事は意味とは何かではなく、言語概念と純粋概念の統一であるから、意味をダイレクトに定義することはしない、しても意味がないのである、であるから言語の意味は概念であると仮定し、仮定された言語概念と純粋概念との関係を統一することを本目的とする。もし私の考え方が正しいならばそれらを統一できれば、このことによって言語概念と純粋概念を統一するだけではなく、付加的に言語の意味は概念と結論付け確定することができるのである。言語の意味とは概念であるという結論は、直観的に見た場合当たり前のことを言っているようだが、手続きとして必要なことである。
言語自体が意味を持つこと、及び純粋概念が言語概念化する最も重要な要とは、以下のとおりである。
言語の発話つまり音及び記述つまり視覚的な光のサインの感受である言語の表現面と、純粋概念の他の個々の要素は分類上同質、同格つまり等価であり、何ら変りがあるものではなく同じ性質の要素であること、またその状態で概念の要素の一部を形成し、それらの細部の要素の集合により、一つの概念の全体をなしているということである。
人は抽象的なものから具体的なものまで様々な概念をもっている。言語概念はその表現面が表に出てきて顕在化し主体観を持ち、他の要素つまり純粋概念(意味)が潜在化したものと考えればよいのであり、そしてそこにおいては表現面の後ろに表現面を起点として、膨大な純粋概念(意味)が背景として広がっているのである。
また純粋概念(言語の表現面を一要素として含む、以下同じ。)を想起する場合は、その時点でのたまたま一番インパクトの強い純粋概念(意味)の一要素が顕在化し主体観を持ち、言語の表現面及び他の純粋概念(意味)の要素が後ろに隠され潜在化したものと考えればよいのであり、そしてそこにおいてはその時の一番インパクトの強い純粋概念(意味)の一要素を起点として、言語の表現面とともに、他の膨大な純粋概念(意味)の要素もその後ろに広がっているのである。そして純粋概念(意味)の一要素はインパクトの強弱の差こそあるが、また時とともにそのインパクトの強弱は変化するが、どの要素も一様に主体観を持つことができるのである(言語の表現面も同じことである。)。
またその反転は実に簡単なしくみであり、純粋概念から言語概念への反転は、純粋概念の顕在化したその時点でのたまたま一番インパクトの強い純粋概念(意味)の一要素を見ている(考えているという意味合いである。以下同じ。)とすると、そこでは同時に潜在化した他の純粋概念の要素とともに言語概念の表現面も見ているということであり、そこで見ている言語概念の表現面が反転して顕在化し、主体観を持つことで言語概念化するのである。その段階は単語単位であったり、句単位であったり、文単位であったりさまざまであり、その時々の概念の大きさに応じて自由に言語概念への転化が起こりフレキシブルに言語活動をするのである。その証拠に身振り、手振りをしながら話すのをよく見かける。それはある程度純粋概念(意味)が難解である場合において、純粋概念を呼び起こそうとしている証であり、言語転化しやすくするためだと思われるのである。
その逆である言語概念から純粋概念への反転についても同じことが言えるのであり、言語概念の表現面をつまり言語を見ているとすると、そこでは同時に潜在化した純粋概念つまり意味を見ているということであり、そこで見ている純粋概念(意味)のその時点でのたまたま一番インパクトの強い純粋概念(意味)の一要素が反転して、純粋概念(意味)のその時点でのたまたま一番インパクトの強い純粋概念(意味)の一要素が顕在化し主体観を持ち、言語概念の表現面及び他の純粋概念(意味)の要素が潜在化することで純粋概念化するものと考えられるのである。この行為は会話や議論では、言語概念そのもので意味をくみ取ることが通常であるが、沈思黙考する時において、言語の意味を詳しくくみ取る場合などにおける行為の一環となるのである。
 言語転化すると同時に、直接言語で意味をくみ取ることができなければ、母語話者とはいえないのであり、そして純粋概念の言語転化の連鎖と言語概念の連鎖で、会話することや文や文章を書くことができるのである。
 比喩で表せばちょうど大福とおはぎの在り方によく似ているのである。これを言語の表現面と純粋概念(意味)の関係に当てはめてみると、大福の皮が言語の表現面だとすれば中のあんこが純粋概念(意味)であり、これが言語概念化している状態なのである。
純粋概念(意味そのもの)として現れる場合はおはぎの状態と考えればよいのであり、これはその時点のたまたま一番インパクトの強い純粋概念(意味)の一要素が、表面に表われ言語の表現面が、後に隠された状態である。反転させる意味で大福とおはぎの例をとったが、言語概念における言語の表現面と純粋概念(意味)の関係だけを考える場合は、大福より色々な具材がいっぱい詰まった中華まんの方がよく合っているかもしれないと思うのである。
言語自体意味を背負っているのである。つまり前者が言語概念、後者が純粋概念ということになる。(比喩のため完全に合致した表現はできないが、概略的には理解できる。)                                                          
 重要なことは「言語の表現面と、純粋概念の他の個々の要素は、概念全体の中で全く同質、同格つまり等価であり、同じ性質の状態にあるということである。つまり並列的及び同等に分類されるものであり、並列的及び同等の状態で存在している。」ということである。
答えはたった上記三行のみにあり、ここのところが一番重要なところであり、これで言語の構造とはどういうものか、言語の意味とは何かという、そのしくみについての疑問の解決の核心部が表現されているのである。  これで音と光のサインと意味が一つの糸でつながり統一されたのである。(ここのところは、養老孟司先生と故安部公房氏のNHKの対談「ことばは人類を滅ぼすか」の中で養老孟司先生が不思議がっていた箇所でもある。)つまり言語概念と純粋概念が統一されたのであり、したがって言語の意味は純粋概念であると確定されたのである。(しかし純粋概念と確定されたとしても、今度は概念とは何かと定義しなくてはならなくなり、また一つの問題が持ち上がって来るのであるが。)今までは話し手、書き手の側から考察してきたものであるが、聞き手、読み手の側からの場合はその始まりは、当然ながら全て言語概念からであるということを付け加えておく。
考えて結論づけして得られた結果は、それまで使ってきた労力つまり思考のエネルギー、疑問による心の不安定感にさいなまれたのに反して、実に単純なことであった。問題の核心部は、ただこの一点にあるのみであり、たったそれだけのことである。
 またこの転換は一瞬にしてなされることであり、人が会話し文や文章を書く時に言語概念と純粋概念において、どちらが先か話者や執筆者当人にとっても区別することはなかなか難しいものである。また言葉を意識しなくなり、あくまで言葉というものは意味を背負っていることを忘れ、言葉が意味そのもののように感じ取るのである。(それはそれでよいのであるが。)また言語概念と純粋概念は今まで考察してきた結果、全く同質、同格の概念と言ってもよいのであり、認識の起点が音や光のサインにあるのか、純粋概念(意味)の一要素そのものにあるかの違いだけなのである。(その純粋概念の要素の中の表現されない要素は、いつも表現されないわけではなく、入れ替わり立ち替わり想起されることが可能であり、その起点として主体観を持ち、意識されるのである。)言いかえればどちらが表面にあるか、どちらが背景になるかの違いだけであるのであり、その裏に潜んでいる膨大な概念は何ら変わらないということである。
 人は物を見る時には、一点のみに集中し他は背景と化し、頭の中では経験知識の概念つまり言語の表現面を含む全ての概念が表と裏の関係で、その一点である表面と背景が常に入れ替わっているのである。つまり角度を変えた物の見方なのである。
言語とは外界の世界の状態、それに働きかける人間の行為、そこから派生する関係などこの世の全ての森羅万象、また架空や虚構の創造的な事象、喜怒哀楽などの感情、快楽や苦痛などの感覚など、つまり純粋概念の名前であり、概念を写す鏡なのである。
私の言う名前とは通常の名詞のことだけではない。動きを表すものの名前「動詞」、事物の状態を表す名前「形容詞」、動詞や形容詞を修飾する「副詞」、確定の意味を持つ「助動詞」、主格を表す「挌助詞」等全て概念の名前であり、その名前自体、純粋概念と同様に意味を有するが、名前だけでは意味をなさないのである。
 またここで言語は純粋概念の名前と言いきれるのは、この項目で言っていることを理解して初めて言いきれるのである。理解していなければ、単なる「意味=指示」説にとどまってしまうのである。
 また母語話者でない外国語のように、名前だけではただの音であり、光のサインにすぎないのである。
ここには個人の視点と万人の共通な視点とがあるが、始まりは個人の経験からある概念を持ち他人とコミュニケーションを取ることにより社会、民族共通の概念に発展するものと思われるのであるが、社会、民族の中で生きてゆくうちに社会、民族の共通の概念とし
て育まれるのである。
 通常人は言語というものに埋没し言語とともに生きている。しかし言語の理論を組み立てる場合は言語という対象を高次の視点から眺めなければ、理論というものを導くことはできない。だからといって、ただ対象を高次から眺め演繹的に考えているだけでは、本当の理論は組めないのである。言語の事象はただ高次から眺めていると、それだけで言語は生きた世界には存在しなくなってしまうものである。つまり言語を対象化する場合と実際に言語を使用する場合と比べて言語自体の重みが変わってくるのである。つまり実際の言語を使用の場では言語一つ一つが作用を及ぼすのに比べ、対象化した言語は実際の作用を及ぼさないのであり、不活性化ないしは標本化してしまうのである。つまり文の中で真の言語としての意味の役目を失ってしまうのである。本来の役目を失った言語を捉えて理論を組んでも、それは正しい理論とは言えなくなる可能性が出てくるのではないかということである。何度も実際に自分が言語を使用する現場まで降りていって、自分の心の中をのぞきこみ生きた言語を直接に捉え、心の中で思考実験し結論を出さなければならないのではないかということである。言語というものは他の事象と異なり、言語の構造を言語で語らなければならないため、つまり言語を対象化するとともに、言語(メタ言語)を用いて言語を説明しなければならないため、よけい困難に見えるのである。
 この言語の理論は、数学や論理学的証明をすることはできない。ただしこの理論は人の思考の問題であるため、心の中で真偽を見きわめることができるのである。

4 人の概念の流れ
 概念の流れについては、二種類の概念の流れつまり変化が考えられ、それを区別しなければならないのである。
一つ目は異なる概念形式への転化であり、つまりこれは純粋概念と言語概念の交換であり、二つ目は次の新たな異なる概念への進展である。一つ目の異なる概念形式への転化は第3項目でみたように純粋概念及び言語概念の内在する要素により、次の異なる概念形式へと転化するわけである。純粋概念について言えば、純粋概念に一要素として内在している言語の表現面が主体化(潜在状態から顕在状態へ)することで言語概念に転化し、言語概念について言えば純粋概念(意味)のその時点でのたまたま一番インパクトの強い一要素が、主体化(潜在状態から顕在状態へ)することで一つの純粋概念に転化することとして、捉えることができるのである。そして現時点で捉えている全ての概念というものは、現時点で捉えている純粋概念及び言語概念だけではないのであり、現時点で捉えている概念を起点として他の新たな概念へと、連綿と連なる芽を一要素として含んでいること、また異なる概念を連想すること、思考し論題を組み立てることも、人間の能力としてまぎれもない事実であり、それが二つ目の次の新たな異なる概念への進展である。
 そして人間の概念の想起は自由でありフレキシブルなものあり、上記の仕組みで会話や文や文章が進展してゆくのである。
 次は人が純粋概念及び言語概念で表現及び思考している時の、人の脳内の働きつまり概念の流れについてまとめたものである。
(1)概念が顕在化している時(保持している概念がはっきりしている時)
 A純粋概念から言語概念へ(概念形式の交換と次の新たな異なる概念への進展を含む。)
 B言語概念から純粋概念へ(Aと同じ。)
 C純粋概念から純粋概念へ(次の新たな異なる概念への進展)
 D言語概念から言語概念へ(Cと同じ。)
(2)概念が潜在化している時(保持している概念がぼんやりとしている時及び概念を思い浮かべかけた時)
 A純粋概念を想起 純粋概念から言語概念へ((1)Aと同じ。)
 B言語概念を想起 言語概念から純粋概念へ((1)Aと同じ。)
 C純粋概念を想起 純粋概念から純粋概念へ((1)Cと同じ。)
 D言語概念を想起 言語概念から言語概念へ((1)Cと同じ。)
 E潜在状態で終わる場合
以上である。
 あらためて考えてみると人の概念の流れは複雑多岐であるが、人はこのことを日常的にまた平易に行っているのであり、純粋概念と言語概念の交換と次の新たな異なる概念の進展を同時進行的に行っているのである。

5 文法の概念主義的発想
言語概念(この項目では言語と略記する。)及び純粋概念(この項目では概念と略記する。)に対するもう一つの要素と考えられている文法も、言語や概念のもとに真なる位置づけをし、言語や概念のもとに統一しなければならないのである。
文法は言語及び概念に関係していることはあたりまえなことであるが、それがどのように関係しているかが問題となるのである。必ず言語や概念との関係に一つの真なる道筋があり、それをきちんと立てなければならないのであり、真なる道筋を立てることによって文法の位置づけができ、言語や概念のもとに一つの関係が樹立できるのである。
 文法というものを、言語や概念のもとに統一できれば、言語や概念に対して一つの独立した構成要素としての存在を消去できるのである。(このことは、なるべく言語の理論を単純化したいため、こうあって欲しいという私の願望でもある。)
文法というものの本質とは何であろうか。言語に対して文法はどのように係わっているのか。あらかじめ文法というものがア、プリオリにあるのか。文法は言語や概念の形成において、それらに影響を与える一つの独立した構成要素なのか、つまり言語や概念を統制するものなのか。しかし実際の言語使用の場において考えてみると、文法があらかじめ存在するものだとしても、概念を表出すること、つまり会話したり文や文章を書くことにおいて、人は文法を最初から何ら念頭においていないことは事実なのである。もし文法というものが独立した要素であり、念頭におかなければならないとすれば、人は会話し文や文章を書く時、文法も考慮に入れながら、当行為をしなければならならなくなるのである。そのようなことをすれば当行為はとどこおり、流ちょうなコミュニケーションや思考は望めないであろう。人は概念の表出その一点に集中しているのみであり、会話したり文や文章を書く時、わざわざ文法を念頭おきながら、当行為をなしていないのは明白なのであり、このことは自分の心の中をのぞき見れば確認できるのである。
 文法とは自然発生的ものであり、文法というものが発見される以前から文法は存在し、それを研究したものが文法学というものである。では何をもって文法が形成されるのか、私の考えとしては、言語が概念の名前つまり表記概念だとすると、その表記概念の規則性つまり文法は言語で捉えられるもの、言語自体が持つ規則の体系であり、また前3項目で述べたとおり、言語と概念は表裏の関係にあるものでありまた同じ実態であるから、それゆえにその体系は概念の性質として概念自体の中にア、プリオリにその形として存在していることが論理的に導かれるのである。言語実践の場においては、文法とは文に作用する形でその姿があらかじめあるのではなく、考えを単純化するため、言語から出発することは考えないことにするならば、初めは概念が基本となるのである。概念を会話や文や文章であるところの言語に、順を追って時系列で転化し、そしてその時概念が言語化され、会話や文や文章となるのである。言語化された概念の表出つまり会話したり文や文章を書く時、人は概念の表出その一点に集中しているのであるから、もちろん文法を考慮に入れているわけではないのであり、概念の構造自体の中にその筋書きが、あらかじめすでにそなわっているのであり、それをあえて文法と呼んでいるのに過ぎないのである。さきほど述べたように言語とは概念と表裏の関係にあり、言語が概念の表現だとすると、文法は言語だけではなく概念の中に存在することを必然的な性質として認めるべきである。文法はこの世界と人の関わりの中で人がそれらを媒介することによって、概念が形成されそれを表現した時のかたちとして、また概念を表現した時の構造がその表現によって、より目に見やすくなったのであるがそれは概念自体そのものに備わっているのであり、それをあえて文レベルでは統語構造、単語レベルでは形態構造と呼んでいるに過ぎないのである。そして言語が持つ構造は概念の性質として全て概念自体のみのこととして還元できるのである。
 統語論は人が概念と言語を獲得し、外界とのやり取りの中に、また概念と言語を駆使し活動するその活動の中で、一つの統語という実質的な実体を持った実態ではなく、概念的実体を組み合わせた、その組み合わせのことであり、そしてこれはもともと高次の概念に移行する時の概念自体のかたちのことであり、あえて統語構造とわざわざ言わなくても、それは概念自体の性質そのもののことである。
形態論においては少し話が細かくなるが、例えば「青さ」「青い」、「高さ」「高い」について考えてみると「あお」は語根であり、語として単独で現れるので自由形態素であり、「たか」は語根であるが単独で語として現れることがないので束縛形態素である。「さ」「い」は単独で語として現れることがなく、語根に後続することにより「さ」は名詞として「い」は形容詞として機能つまり意味させる機能的形態素であるとされている。この「さ」と「い」は、もともと概念としては「青さ」「青い」、「高さ」「高い」で一つの意味単位であったものを文法学者が分割した結果であり、これでは単独では意味を持ちようがないし、ゆえに単独で語として現れることがないのである。またこれは語尾変化で概念が変わるというよりも、ある一つの概念の派生グループを表現するために、語尾変化つまり表現方法を変えさせていると捉えた方が自然であり、時制の語尾変化はその典型なのである。そしてまた単独で意味を持つと都合が悪いことが起こるのである。つまりその単語が意味を持つと言語及び概念(意味)と言語及び概念(意味)とが干渉し合い、真なる言語及び概念(意味)を形成しづらくなるのである。これは50音の「さ」と「い」とは異なり「Nさ」「Nい」のように「N」との関係で意味を持ち、また「N」に適宜な語を代入し派生語を生じさせるのである。これは「N」どうしの関連性と単語の経済性を備えた、上代からの人間の英知に違いないが、これは必然的な成り行きなのか、人間の偶然的な選択であるのか分からないが、もし必然的な成り行きであっても、真なる概念を表出するための人間の英知にほかならないことは確かであり、概念の表出のなせる技でありその結果自体のことである。
 結局文法の根本的位置づけは、概念の性質自体の表われであり、会話や文や文章の結果であるということである。文法があって会話や文や文章があるのではなく、会話や文や文章があって文法があるのである。人が概念を言語で表現し終わった時、その形態の中に結果的にまた自然的に形成されてしまうのが文法なのである。したがって文法と呼ばれる全てのものは、実質的として存在するものではなく、概念は概念でありまたその組み合わせのかたちも概念自体であり、概念に本来的に備わった概念の性質であり、概念そのもの自体のことなのである。また概念を言語で表現した時ポジティブなかたち(耳に聞こえるかたちであり、目に見えるかたちである。)で現れるように見えるだけのことである。文法とは概念の構造であり、また見方を変えれば文法形成は概念形成自体のことであり、概念そのものの自体の中にあると考えるか、それより適切な表現としては概念そのものと考えたほうがより正しいのである。これもまた言葉を発する時自分の心の中をのぞき見れば、明白なことは分かるのである。
 だが文法というものは、言語を構成する重要な要素としてア、プリオリにまた主体的に能動的に存在していると、そう考えるのが通常であり、大多数というより全ての学者がそう考えるであろう。しかし文法とは会話や文や文章が形成された後、自然発生的な結果に規則性を見出し、それを分析的にまた学術的に定式化しまとめたものであり、概念を会話や文や文章に言語化した時の自然発生的な特質を、一般化し抽象化し後から拾い出したものにすぎないものである。そして会話し文や文章を書くことに対し、その知識は何ら関与しないものなのである。その証拠に日本語では名詞が動詞化されるという現象があり、例えばサボルという語があるが、これはフランス語のサボタージュつまりストライキのことからきているのであり、今では立派な日本語になっているのである。このほかにググルやヤフル、デコル、パニクルなどがある。これは概念の変化で品詞が変わるのである。次は日本語の動詞活用が、歴史的仮名使いでは四段活用であったものが、例えば未然形では「書かう」、「行かう」などが現代仮名使いでは「書こう」、「行こう」というように変化し、オ段が入ってきてしまったため新たに五段活用と呼ぶようになったのである。つまり語彙の変化に伴い文法を改めたのである。これも第3項目で示した通り語彙も概念の一要素つまり概念であり、よって文法は概念の変化で変化することを如実に示しているということである。このことは文法というものは頑然とまたア、プリオリに存在するものではなく、概念の変化で変化することを如実に表しているものである。
文法というものはその規則が研究されているのであるから、確かにその規則というものは概念の陰影としてあるのである。そして会話や文や文章に対してその規則があるのならば、言語が生まれたときでありこの規則も自然発生的にならざるをえないのであり、人工言語自然言語も人間が創ったのであるから人工言語であるが、そういうことは言わないように。)でないかぎり文法を意識して、人工的に創り上げられたものではないことだけは確かである。
 人が持っている言語というものに本質的に必要な作用とは、伝達と思考である。よって伝達と思考さえ満足すれば、文法という規則は言語に対し関与的でなくともよいのであり、わざわざ文法を創る必要もないのである。そして伝達と思考というものは概念の表出と操作であり、言語ならば意味を背負っておりまた概念ならば言語転化し、言語活動するのであり人はその中で生活をしているのである。ということはそこには概念の表出と操作が文法を介さずに確実にあり、伝達と思考を満足させるものがあるのである。よって会話や文や文章は文法によって拘束されはしないのである。そこに規則性があるのなら概念そのものが統語構造をなしているということであり、統語構造は概念の性質か概念そのものと考えざるを得ないのである。つまり文法が必要だから創るのではなく、概念の生成とともに生成しているものである。会話し文や文章を書く時には、人は概念の表出その一点に集中しているのみであり、このことで事が足りるのであり、文法を念頭に入れる必要は全くなく、関与しなくともよいのである。
 会話や文や文章を形成する場合、文法というものがもし言語や概念を統制する自立性を持った要素であるとしたならば、人は言葉を創る時、文法も創らなければならないことになる。そのようなことは不可能であり、またそのようなことは不必要なのであり、言語創世記においては言語を発声するだけでやっとであったであろう。このことはピジンクレオールを研究すれば言語創生期のことはそれほど想像には難くはないのである。
 次は上記概観の裏付けを、個々の言語上の特異的な性質を抜粋し見てゆくことにする。
まず始めに時制、態、疑問、命令、依頼、使役等々の文の文法事項について考えてみることにする。これらはこれらについて概念があり言語転化しコンテクストを形成する。そしてそこには、これらに見合った単語があるのであるのである。しかしここにおいて倒置文だけが、その要望を満たす単語を持たない、つまり構造の変化で文の性質が変わるのである。もともと平常文であったものが倒置すると疑問文や強調文になったりするのである。
 しかしこれは良く考えてみると、問題となる点はすぐに処理できるのである。疑問文を例にとれば「This is a pen.」を疑問文にすると「Is this a pen?」となるのである。これは形式上の主語はthisであるが事実上(意味上)の主語はIsなのである。つまり「です、これはペン・・・・」と・・・・は、Isがかもし出している内容であり、また相手の斟酌を促しているのであり、これはペンと断定しても良いですか、つまり「です=Is」であり「Is」は「this a pen.」は確かなものですかとなり、事実上(意味上)の主語になるのである。また「Who is he?」の形式上の主語はheであるが事実上(意味上)の主語はisであり「です、彼は誰・・・・」とisは質問の受け手に対して要求を促してしているのである。つまり強調文も同じことで、倒置文は意味上の構文では何も統語構造が倒置していないことになるのである。すると文法上の作用や性質が消えるのである。もしあくまで構文上の変化を主張するなら、概念によってなされた変化と考えるべきである。
 次は文法的と言われる品詞について考えてみると、「は」「が」「です」「ます」「だった」「しかし」「そして」「また」などの文法的とされる係助詞、挌助詞、終助詞、助動詞、接続詞、など自然界に存在しない意味を表す単語も文法とは全く関係がなく、全て概念を表
しているのである。つまり格助詞は主格に持ってゆくニュアンスを表現しているのであり、助動詞なら心の落とし所、もしくは確定の意味を示しているのである。そのほかの品詞も同じく、それぞれの品詞についてそれぞれ意味を表現しているのである。
 例えば「吾輩は猫である。」という文を意味不明な文にすると「は、吾輩、である、猫」とした場合、文として何も表現していないのであり、ただ個々の単語の意味だけになるのである。これは文法どおりに言述されなかったというよりも、一番始めにきた「は」は何を主格に持ってゆくのか表現されていないからであり、つぎの「吾輩」については主格として表現されていないからであり、つぎの「である」は何を心の落とし所、つまり確定させるものがこの文では分からないからであり、つぎの「猫」は主格との関係を断たれた単なる普通名詞として、つまり一般的な猫としてしか表現されていないからであり、この文では概念を持てないのである。というよりこういう文は概念を保持していないのである。概念のないところには文法はないのであり、自然発生的な規則は存在しないのである。
 文や文章は一度に全ての概念を表出することが出来ないため、時間的、空間的に見てど
うしても制約され線上的にならざるを得ないのであり、これがみかけ上の文法性を肯定する温床となるのである。もし映像のごとく概念を一度に全て表出できたならば、文法性というものは考えないであろう。
 次にbe動詞について考えてみると「This is a pen.」は日本語では「これはペンです。」となる。また「Fujiyama is beautiful.」は 日本語では「富士山は美しい(です)。」となり英語の品詞は「名詞、動詞、冠詞、名詞」及び「名詞、動詞、形容詞」でそれに比べ日本語では「名詞、助詞、名詞、助動詞」及び「名詞、助詞、形容詞、(助動詞)」となり、同じ概念を表現するのに全く異なる品詞を使う。英語では必ず動詞が入ってくるのである。これを見るかぎり文法の独自性が見えるように思え、一見私の主張である「概念そのもののかたち及び概念の組み合わせとしてのかたち自体の実態をあえて文法と呼ぶこと」という考え方を否定するかのように見える。だがbe動詞の特性は動詞といえども動きを表すものではなく、言いかえれば静詞と言った方が良いくらいのものであり、日本語の助動詞に相当するものである。be動詞のカテゴリーは動詞であるが、実体として概念的には動詞ではないのである。動きのないものを表す品詞を動詞に分類するのはおかしな話であるが、一応動詞と人為的に分類されていることだけにすぎないのである。またbe動詞の特異的な性質により、品詞が異なるが概念にもとづいて表現しているのであり、概念としては同じものである。
 チョムスキーに賛同するわけではないが、チョムスキーが言っているように、文法というものは普遍的なものであり根本的には、どの言語をとってみてもその深層構造は同じであるということである。あくまで文法の自立性を主張するならば、概念による文法形成の恣意性と反論できるのである。
 次に日本語の仮名使いについて考えてみると「わ」と「は」、「え」と「へ」などの異なる文字で本来的に異なる発音をするものが、同じ発音をするとはどういうことなのかという問題である。例えば「わたしは」について考えると、始めの「わ」は基本どおりの発音で最後の「は」は「ha」ではなくて「wa」と発音する。そして「わ」は単語や句の始めにきて「は」は係助詞で単語や句の終わりにくる。「え」と「へ」についても「え」は「えのぐ」、「えだ」など「わ」と「は」の「わ」と同じく単語や句の始めにきて基本どおりの発音である。「へ」は「あなたへ」、「どこへ」というように、「わ」と「は」の「は」と同じように単語や句の終わりにくる、発音は「he」ではなく「e」と発音する、また「ず」と「づ」については、文字は異なるが同じ発音をして「すずしい」、「すずめ」と「つづく」、「つづみ」など清音の後に同じ仮名の濁音が続くのであるこれらは自然的にできたのか、それと
も意図的に創られたのか、多分意図的に創られたと考えたほうが、可能性が高いのではないかと思う。しかしこれはあくまで、文字一つの使用方法に過ぎないのであり、文の規則つまり文法が知られるようになってからなのか、その前なのか分からないが、文字が創られた後ならばこの程度の操作は可能であり、ここは読み方が異なるが、こういうふうに、読みましょうと決めただけのことであり、それが慣習となったのである。日本語のローマ字表記と同じ考え方である。もともと日本語は各方言からなっていたものを、明治政府が東京方言を、標準語として統一したといういきさつがあるのである。文明が進んだ今となっては、人は意図的か自然的にか言語を変化させることができるのである。
 また詩で韻を踏むということは文法的とは言わない、それは文体を美しくするという意図があり、また日本の短歌では五、七、五、七、七と言葉をあてはめ、俳句では五、七、五と言葉をあてはめ、季語を入れる規則があるが、これもこの規則の中に自己の思いを入れるとともに、より詩にリズムを持たせ、また制約させることによって極限にせまり、より美しいものにする共に、他の作品と差別化することによって、その作品をより高尚なものにするという意図があるのである。ここには余裕が感じられるのであり、いかに限られた文言の中に情景や人のいとなみを組み込むという技巧を楽しんでいるのである。このことは文法とは言わないのであり、詩の規則か取り決めと表現したほうが良いであろう。
その反対の極には電報(弔電、祝電は除く)があり、また軍隊などの命令があるのである。つまり必要なことだけしか言わないのである。電報の場合には修飾語は使われないが、一応文体の形をなしているのであるが、特に命令などは文法無視の感が強い、あまり使いたくない例であるが、例えば「撃て」という命令は主語、目的語、助動詞、助詞など全部が省略され動詞だけである。それでも目的が達せられるのである。目的語がないからといって敵を撃たずに味方を撃つわけではないのである。つまりその時の場面及びその時の状況が概念として捉えられているからであって命令が確かに遂行されるのである。
また言葉を覚えたての子供が、パパ、ママ、食べる、欲しい、という単語だけで表現する場合においても、子供自身は「てにおは」を表現できないだけであり、概念を捉えているのであるが、聞き手が斟酌すれば、文体を作る、格助詞、終助詞、助動詞等の概念をその単語に結びつけることができるのであり、実際には発音されなくとも聞き手の斟酌を通して概念として存在しているのである。またわかりきっている時、日本語は主語を省略する場などもその例なのである。つまりより確実に、より明瞭に表現することが出来ない子供の例と、分かりきっていることをわざわざ言わない文の経済性の原則の例である。
 命令を含め上記のように文を省略している場合は聞き手が斟酌していると考えられるとはいえ、いずれにしても文法にかなってない文が伝達できるのである。聞き手の斟酌があるとしても、文法的でない文が意味を表現できるのは、その時の場面その時の状況が概念を補っているからであり、その場に立ち会っている時概念として通用するからである。
 文法的には合っているが意味不明な文がある。これはいったいどう考えたらよいのだろ
うか。例えば「夜中の朝日は眩しい。」、「最大の素数は存在し、しかもそれは金の原子番号
である。」という文は、文法的には合っているが概念として矛盾ように見える。では文法は実質的なものなのか、そうではない低次の概念と低次の概念を結び付ける概念つまり助詞や接続詞だけを残して高次の概念つまりコンテクストレベルの概念が二律背反してしまうのである。しかしそこにおいても二律背反と感じ取れるから二律背反の概念は虚構として存在し、その陰影である文法もそこにはあるのである。また文法を知ってしまった人間は単語と文法を用いて文を人工的に創ることも確かなのである。しかし基本的には概念があり、その結果として文法があるのである。架空の文で意味も矛盾も何も感じ取れない単なる文法だけが表面に出る文とは何であろうか。そういうものはない、文法とは普段我々が会話し文章を書く時の一般化もしくは抽象化であるからである、それを横からながめ研究したものが、文法学というものである。
 いろいろと眺めてきたが文法についての最終的結論は、基本的に文法とは会話や文や文章に規則性があっても、その実態は概念自体の表われであり概念そのもののことであり、それ以外のなにものでもないということである。そしてその中にあるネガティブな陰影として、またあたかも概念の中に潜在し隠れているかのように見えるだけである。そして概念を正しく表現した時、つまり言語転化した時、初めてポジティブな姿として表われる規則に見えるだけのものである。その規則自体は本来、会話や文や文章の意味においては意識する必要はなく、関与的なものではないということである。もし文法というものがあらかじめ頑然と創られたものであり、会話や文や文章を形成する要素であると考えると、おかしなことが起こるのである。人が始めて言葉を獲得した時、その時もうすでに文法学者がいて、言葉とは「これこれこういうような規則で発話するのだよ。」と、指導する者がいなくてはならなくなるからである。このことは言語創生期に遡る必要はないのであり、ピジンクレオールが言語創生期と同じものなのであり、それを研究すればよいのである。第一世代のピジンから第二世代のクレオールに移行する場合、文法を意識しているわけではないのであるが、自然と文法にかなった「てにおは」ができるのである。
 文法とは言語を学術的に分析し分類し整理したものであり、また人為的に規則性を見出したものであり、その生成は概念自体のかたちであり、それ自体のことである。概念が持っている性質から規則性を見出しただけなのである。
 例えば次の説明文は誤りをおかしている。例文「国文法でいう助動詞とは時制(テンス)、
相(アスペクト)、態(ヴォイス)、法(ムード)など文法機能を表す品詞であり、付属語だが助詞と異なり活用する。」「補助動詞とは日本語などにおいて、別の動詞に後続することにより、文法的機能を果たす動詞で、それ自体本来の意味は保っていない(前の動詞との組み合わせで意味を持つ。)ものである。」上記は助動詞と補助動詞の説明文であるが、その中で文法機能を表す品詞とか文法的機能を果たす動詞とかあるが、本来文法とは概念
のかたちすなわち表われであり、高次においてはその概念の組み合わせのことであり、その表われ自体も概念であり、概念形成の結果として付随的に規則的に見えるだけなのである。また言語転化した時ポジティブにその姿を表すように見えるだけであり、会話や文や文章に何ら影響及ぼすものではないものであり、そこには規則性がありその規則性を説明したものが文法学なのである。機能という表現は誤りであり、文法とは会話や文や文章における規則性のことであり、機能というように能動的なものではないのである。しかしここでは文法を機能として扱っているのであり、それではまるで文法が独り歩きしてしまっているように見受けられるのであり、言語の中核を担っているように表現するのは本末転倒ではないだろうか。文法機能を表す品詞とか、文法的機能を果たす動詞とかいうのは、いったいどういうことか、文法に意味はあるのかまた概念との係わりはどうなのかである。
 次に助動詞とは文法機能を表す品詞とか補助動詞とは文法的機能を果たす動詞で、それ自体本来の意味は保っていないとしているのは、文法機能を表す品詞とか文法的機能を果たす動詞という、文言をはずせば納得する。つまりここでは単語に対して厳格と寛容の捉え方がある。厳格に捉えるとするならば、単語における本来の概念、つまり意味はコンテクストの中だけでしか、意味を持たないということである。例えば「ウイルス」という単語は医師どうしの会話では病原体のことであり、コンピューター技士どうしの会話ではコンピューターウイルスのことである。また「リーマン」という単語は数学者どうしの会話ではリーマン予想のことであり、経済学者どうしの会話ではリーマンショックのこととなる。また「星」という単語は天文学者うしの会話では夜空に輝く天体であり、家族や職場での会話では「希望の星」という意味になり、警察では犯人になる。「空気」という単語は地球の大気であったり、会話している場合において、場違いな言葉を発した時は「空気を読めよ。」の空気になったりするのである。その会話の状況しだいでは「ウイルス」「リーマン」「星」「空気」の意味は変わるのである。このように単なる単語では意味をなさないと厳格に考えるか、またちなみに寛容に捉える考え方をすれば、単語である程度意味を保持していると考えられ、たとえば「ウイルス」や「星」について、平易に考えると個人個人の捉え方は異なるかもしれないが病原体であり、夜空に輝く天体なのである。
 この項目の前の方の形態論について考察したところで述べたが、助動詞や補助動詞は大まかにみて単独では意味を持てないのであり、意味を持つと少しやっかいなことが起こるのである。つまり意味を持つと言語及び概念(意味)と言語及び概念(意味)が干渉し合い、聞き手、読み手にとって概念を形成しづらいのである。しかし例外もあり助動詞では使役の「させる」、否定の「ない」など意味があり、補助動詞では「蓋を開けて見る(動詞)。」、「蓋を開けてみる(補助動詞)。」と「東京へ行く(動詞)」、「話を聞いていく(補助動詞)うちに・・・・」のようにそれ自体、意味を保持しているものもあり、概念が干渉するため仮名で書く場合もあるのである。これは助動詞とは文法機能を表す品詞とか補助動詞とは文法的機能を果たす動詞とかあるが、文法機能や文法的機能ではない。真なる概念を表出するための人間の英知であり、概念の表出のなせる技であり、概念の表出つまり言語の結果にほかならないからである。人は文法を考えながら、会話し文や文章を書いたりしているわけではないのである。人の会話や文や文章が文法からそれほど逸脱しないのは、概念の表出と操作こそ文法の表出であることの証拠なのである。
 文法とは言語における独立した構成要素ではない、言語に実質的に存在する構成要素は概念であり、概念自体及び概念を表出するためのその組み合わせも概念自体であり、これは本来概念が持っている性質であり、全て概念の中にその筋書きが備わっているのである。つまり文法はその中に副次的に見えるネガティブな事柄であり、言語で表現した時あたかもポジティブに見られる規則であるかのようなものである。そして人間が概念を把握し思考し言語を発話し記述すること自体が法則である。つまり概念とその表出には規則性があり、その規則性をあえて文法と呼んでいるのに過ぎないのである。であるから文法は言語使用の場面に対して何も影響を与えないのである。概念間の組み合わせ、つまり高次の概念の形態そのものも概念自体であり、そこに見られる規則性をあえて文法と呼んでいるにすぎないのである。   
 言語能力は概念形成能力のもう一つの側面であり、言語能力によって文法が表出されるのである。また概念形成能力及び言語能力は人間にとって生得的であり、文法を能動的に規定さえしなければ、チョムスキーの言うとおり文法とは、生得的なものとなるという答えも導き出されるのである。そしていままでの説明をもって、文法を概念自体が持つ性質としての規則性として位置付けることにより、文法を言語及び概念のもとに統一できたのではないかと思うところである。
 現代の言語学は文法の所在や在り方も何も定義しないで、実質的な存在として認め研究している。そのため言語が余計複雑に見えるのである。言語というものはもっとシンプルなものなのである。文法という規則性は会話や文や文章を形成する要素ではなく、もうすでに概念の中にあり概念がその規則性を形成しているものであり、また概念と概念の組み合わせのかたちも全て概念であり、概念自体に規則性が備わっているのである。そこに規則性というものがあるから、そこから短絡的に考えて何も定義しないで、会話や文や文章は文法から形成されていると、一概に決定するのはどうかと思う、もっと基本に立ち返り文法とはいかなるものかを問い直すべきである。 
 
6 概念とは
 言語の意味は概念であると確定をしたが、では概念とは何かと問うても概念を一概に定義することはできないが、ここで新ためて少なくとも自分なりに考察することにする。概念とは人間の頭脳の中にある今までに生きてきた過程で獲得したか、または授かった経験知識の集合であり、人間の五感で直接的及び間接的に感じ取ったもの、つまり外界の世界の森羅万象の概念及びとそれと対峙する自己との関係の概念、そこから派生する社会的、文化的な概念、また架空や虚構の創造的概念、感情における喜怒哀楽の概念、感覚による快楽や苦痛の概念など全てが個人の限りにおいて人の脳内にきざまれることであり、それが純粋概念ということであり、これを第3項目の方法により言語転化したものが言語概念である。言語概念は伝達の役目を持ちそれも重要なことであるが、純粋概念を耳に聞こえる形、目に見える形に収斂し概念に区切を入れるため、人の思考をより明瞭にするという、伝達の役目と並ぶ重要な効果を持つのである。また言語概念化すると個人個人がそれぞれ持っていた概念は、その個人の持つ概念の細部については切り捨てられ、おしなべてその属する民族、社会に共通な概念に統一されることは確かである。
 また次元は異なるが大きな区分として抽象的概念と具体的概念に分けることもできる。
つまり概念は外延の連なりと要素の内在とからなり、外延では個体の連なりその連なりに共通な事象の集まりが抽象的概念である。たとえば三角形を例にとれば、三角定規、ピラミットの一面、三角屋根、生八ツ橋、富士山、矢印の先の部分、デルタ翼の航空機の主翼、鶴の折り紙の羽根の部分などがあり(ちょっと無理をした例もあるが三角形に見えないことはない。)個体の連なりに共通な事象の集合、つまり三角形という抽象的概念なのである。数学的に言えば、三つの直線がありそのうち最初の二直線が1点で交差し、三番目の直線が前者の二直線と2点で交差し、その内側にできる内角の和が180度のものであるということになる。抽象的概念はこの世界に存在する事物の共通な特徴だけを抽出し選びとった概念の集合である。
 それに対して具体的概念とは、ある個体の個性の要素を凝縮したものであり、ある個体に対して色々な要素が集約されているということである。つまり要素の内在であり、そのものに対する個別的性質の集約、そのものに対する思い入である要素が内在されているものである。たとえば思い入れがいっぱい詰まった、私の茶色の皮の二つ折れの財布とか。また財布や弁当、手帳やノートなどの種々雑多なものが入っていて角の方が少し擦れたしまった私のカバンとか。
 抽象的概念から具体的概念の流れは4であれば、4匹の犬と4と比較すれば4匹の犬はより具体的なものであるが、どのような毛並みをもっているか、種類は何か、雄か雌か、年齢は、だれが飼い主かと、だんだん要素が増えるにしたがって具体度が増してゆくのである。とにかく抽象的概念及び具体的概念に対して一つの要素として、言語の表現面も他の要素と同じ性質なものとして概念の中に含まれているのである。
                    
7  まとめ
 言語概念とそれに対応する純粋概念とは、同じ意味を有すが、その形態において全く異なり一元的ではない。一元的でないものが同じ意味を有するとはいかなることか、また一元的でないものを一元的なものにする原理とは何か、これを解決するには言語概念の在り方、つまり構造を解明することである。言語概念の表現面と意味の関係は恣意的であり必然的なつながりなどどこにもない。恣意的関係でしかないものが一つの概念を表すとはいかなることなのか、これが現在言語学や哲学にとっての最大の問題であり、謎とされる問題の核心部であると私は解釈する。また概念の流れとはいかなる変遷で成り立つのか、また文法とはいかなる性質のものか、概念とはいかなるものごとかを考察してきた。
 言語概念と純粋概念の関係としては、言語概念の構造を解明することにある。これは第3項目で見てきた通りであり、純粋概念(意味)の要素と言語の表現面とは同じ性質の要素であり、いかなるものが主体観を持つかで決定されるものであり、何の意味も持たなかった言語の音声や記述がいかに意味を持つかについて、思考をめぐらせ精査してきたのである。数学的、論理学的証明はできないが、このことは心の問題であり、心を読み解くことによって、それが証明に替わるものであり、それについては整合性のとれる説明を行ったつもりである。このことは絶対に正しいものであり真実でありまた、否定できるものではないと私は確信を持って断言するものである。
 ここで解明された言語概念と純粋概念は、第4項目の通り流れるものである。
 また文法というものは第5項目で述べたように、概念が生じた時に共に生じるのであり、一つの独立した要素ではなく能動的なものではないのである。そして全て概念の中に備わっているものであり、その規則性は概念を言語化した時の特質であり、言語概念自体の中に副次的に生じるネガティブな事象であり、そして人間が概念を把握し思考し言語を発話したり記述すること自体がもうすでに文法なのであり、また概念を言語に転化した時あたかもポジティブに規則性を見ることができる実態であるかのように見える虚構なのであり、それをあえて文法と呼んでいるものに過ぎないのである。文法は概念の中にあり概念そのものと言ってよいのであり、また文法は言語活動においては全く関与的ではないのである。文法の必要性から人工的に創られたのではないことだけは確かであり、そして文法というものは会話や文や文章の中に文法学者が規則性を見出し定式化したものである。文法というものは、概念そのものとして捉えるべきものであり、そのように考えると概念形成能力は生得的なものであるから、文法というものはチョムスキーのいう生得説に案外通じるのかもしれないのである。
 また概念については私が少々述べたが、人間の能力で捉える全て、森羅万象、人間の社会的文化的事象及び架空、虚構の創造、感情、感覚の概念であり、これは広大な分野を占めているのもあたり前であり、人間の思考のベースになっているものであり、人間の思考そのものである。当然一言で言い表されるものではないのである。
               
                                 Ⅱ                   

                            ソシュール構造主義批判

 
 この章は故丸山圭三郎著の「ソシュールの思想」にもとづき、整合性が取れていないかまたは私見(前第Ⅰ章の言語理論の試的推論との対比)とは異なる部分を抽出し若干の批評を試みたものである。
 ソシュール、故丸山圭三郎氏という、構造主義の大家の思想及び書いた本でもその内容について、よく考えてみると不具合なところがある。後に続く者として、異なった見方をするのも言語学の進歩にかかせないものであり、全てが右にならへでは進歩がないのである。
 なぜこのような不具合が発生するのか、ソシュール構造主義の成り立ちにも、その原因があろうかと思うが、これだけ研究されているものに、初歩的な矛盾が感じられるのは、もともとその構造主義言語学に疑問をいだかざるを得ない。

8 ラング、パロール及びランカージュについて
 (1)ディスクールの所在の曖昧性
「仮に語とか文法的形態を考えるならば、これら全てはラングに与えられており一定の状態に固定している。しかし、そこには常に各人の選択に任された結合という個人的要素もあるのであって、個人が文の中に自らの思想を表現することも事実である。この結合はパロールに属する。何となればそれは実行なのだから。」とあるが、ソシュールは、ディスクールがラングに属するのか、パロールに属するのか最終的な形では定式化していない、いやできないのである。連辞や文法の形相性を考慮するとラングに分類され、一時は連辞や文法の形相性を考慮したからであるが、精神的事象全てラングに入れた時期があるかと思うと、またある時は個人の精神的実行である選択と結合であるためパロールに分類している。ソシュールは造語を行い定義したのであろうが、肝心なディスクールつまり言述を、ラングに入れるかパロールに入れるか曖昧で、何度も変更しているがこれはおかしな話である。
 もちろんディスクールはラングではない、書かれた書物であればラングとして扱うこともできるであろうが、書物を書くことはもちろん人々の会話はラングとしては扱えない、ラングとは人々の脳内や外界あるものであり、形相的な型であり人々の脳内で組み合わせるその対象のことであり、脳内の操作から形成されるものではないことだからである。それではパロールなのか。
次の定義は「ソシュールの思想」からの引用であるが。
 以下はパロールの定義である。
 A「ランカージュを実現するための一般的能力の行使(発声作用など)」
 B「個人の思想に基づくラングのコードの個人的行使」とある。
 Bについて言えばラングを組み合わせて、ディスクールを形成することであり、もしディスクールパロールに含めたとして考えてみれば、パロールが一番重要な事項となり、構造主義パロールの学となってしまうのである。しかしソシュール自身パロールをそれほど重要視していないのである。それにその本質はそのパロールを分析するとラングとランカージュでできているのであり、要するに言語能力の行使はつまりパロールではなくてランカージュである。パロールの役目というものはAである。したがってパロールとは発声つまり音及び記述のさいのインクのしみ等でしかないことになり言語学の対象ではない。ランカージュとは人間のもつ普遍的な言語能力、抽象化能力、カテゴリー化能力でありディスクールはランカージュ能力である。しかしソシュールはランカージュはそのままでは混質的あり、分類原理をなさないとしていて正面からランカージュを研究することをしていない。丸山氏は規範的ラング及び生産活動としてのパロールという範疇を理論的に創り出し、ディスクールを無理やりそれらの範疇に押し込んでいる感がぬぐえないのである。
 ソシュールは連辞や文法を認めているため、連辞や文法の形相性と個人の精神的実行が矛盾するのである。いずれにせよ分析的に考えるとディスクールはラングとランカージによってできているものと考えざるを得ない。またディスクールをラングかパロールに含めるのは基本的に無理があって、どちらに含めようとしても意味がないのである。また真正面からランカージュの解明に取り組むべきである。
 (2)ラングの本質と価値
ソシュールはラングにおいて在るのは人間の視点だけであり、そこには差異しか無いと言っているが、何も無ければ差異も生まれないのではないのか。このことがどうしても気にかかるのである。人間の視点とは何であろうか、何か見ているには違いないが、いったい何を見ているというのか、もちろんラングは実際の個々の存在物ではなく、形相的な型であり人々の脳内で組み合わせるその対象、つまり骨格みたいなものであるが、いくら骨格でも比較する起点がなければ、差異など生まれはしないのである。
 例えば、狼というラングと山犬というラングについて言うと、狼というラングが無くなれば、山犬というラングがそこを埋め山犬というラングが大きくなるという。しかし各ラングには、本質的なものはあるのであり、猫というラングが、狼というラングに取って替
わることはないのである。
 次は故丸山圭三郎氏の「ソシュールの思想」ではラングの体系と構造についてどこまで指し示すのかの記述がない。ラング全てを全体で捉えるのか、ラングのカテゴリーがあってカテゴリーごとにラングが体系をなすとともに、その体系が集まってラング全体の構造をなしているのかである。ここに二つの考え方あるが、私の考えだと常識的考えれば、たぶん類似したカテゴリーごとにラングが体系を形成し、そしてその体系がひとまとまりになり、全体のラングが形成されているのではないかと思われる。           
 たとえば文という体系は名詞、動詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞、接続詞等が概念にしたがってそれを表現するために存在し価値を形成している。これはソシュールの言う連辞との係わりもあるのであるが、ラングのカテゴリーには上記各詞のカテゴリーがあり、特に名詞については、自然的、文化的なカテゴリーに分けることができる。たとえば動物においては自然的カテゴリーでは、犬族に属するのは犬、野犬、山犬、きつね、狼等の体系という集合があり、猫族には猫、山猫、ライオン、トラ、ヒョウ、等の体系の集合がある。これを文化的カテゴリーで区分すると家畜的カテゴリーとして牛、馬、豚、羊、山羊、鶏等があり、愛玩的カテゴリーとして犬、猫、リス、小鳥、亀、観賞魚等がありそれらが一つのカテゴリーに分類される。そのカテゴリーは、ディスクールの場面の状況により取捨選択されるのである。またこの異種のカテゴリーにおいては、そのカテゴリーの性質により、一つのラングが色々なカテゴリーにより分散され、また重複することもあるのである。
 しかし言語をラング、パロール、ランカージュとして分類する必要性はあるのであろうか、ラングとは記憶、しいて言えば記録、録音のことであり、パロールは実際の個人の具体的な発話や記述のことであり、ランカージュとは言語能力つまり概念形成能力と言語転化能力のことである。それら三位一体となりディスクールを形成しコミュニケーションしまた思 考するのである。言語活動とはそれら統合的、結合的作用であり、それらを個々に分類し区別し定義し説明しても全体を形成している相互作用は説明できないのである。であるからディスクールの所在が曖昧になり、宙に浮いてしまうのである。                                                         
9 主知主義及び言語名称目録観の否定について
 ソシュールは「コトバは認識のあとにくるのではなく、コトバがあってはじめて事象が認識される。もしくはコトバと認識は同一現象である。」としている。
この見解については「コトバと認識は同一現象である。」には同意するが、しかし「コトバは認識のあとにくるのではなくコトバがあってはじめて事象が認識される。」には同意することはできない。
 例として故丸山圭三郎氏の「ソシュールの思想」の中の引用だが、太陽光線のスペクトルをあげている。「日本語では、虹の色が紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の7色から構成されている。英語では、purple、blue、green、yellow、orange、redの6色、ローデシア語では3色、アフリカのサンゴ語、パッサ語では2色にしか区切られていないという事実はなにを物語っているのであろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。」というわけであるが、確かに各人があらかじめもっていた概念を言語は民族、社会共通の概念へと均一化することは確かであるが、だからと言ってコトバが概念を創るとは言えない。
 7色6色くらいの違いはさておいて、2色しかもたない言語を話す民族各人にとっても2色しかコトバがないから、光のスペクトルが2色にしか見えないということはない。必要ではないからコトバが2色しかないのであって、色覚異常でないかぎり人間の視覚のつくりは同じであり、ちゃんと7色または6色に見えているはずである。
 もう一つは故丸山圭三郎氏がムーナンの例を引用している箇所である。「同一言語用いている人々ですらはたしてどこまで同じプリズム同じゲシュタルトを通じて現実を見ているかという問題も残るであろう。樹一般しか知らず何でも木と呼ぶ都会人は、柏、クマシデ、ブナ、樺、栗、トネリコを区別している農夫と同じゲシュタルトを通じて世界を見ていない。」としている。植物学者、農夫、都会人と区別した場合においては、その認識の度合いは異なり、また各人知識の異なりで物事の捉え方は異なるものである。しかし名前を知らないからといって、柏、ブナ、栗等の区別が全くつかない理由はどこにもない、名前くらい知らなくても、いくら都会人でも見える木は見えるのであり、葉の形や木の枝ぶりが違うことくらいは分かるのであり、何でも木と呼ぶわけであないのである。名前を知らないからといってカオス状態であるとは考えられないのである。これは具体的概念に対する密度の問題だけなのである。
 もう一つの例では「フランス語ではboeufは英語のoxばかりかbeefをも包摂している。日本語の「木」は机など作っている材料でもあれば庭の青々とした木でもあるが、英語では前者がwood後者がtreeそして、「木」のwoodには「森」という意味がある。」
 これは各民族、社会間の観念(以下この項目では引用文に合わせて概念のかわりに観念を用いる。)の捉え方の違いが反映しただけのことではないのだろうか、つまりここで故丸山氏が言いたいのは、言語が観念を切り取り、言語が観念を作るということである。
よって言語の違いによって観念の捉え方は、その民族、社会によって異なるということを
言いたいのである。
 ソシュールに言わせれば「仮に観念なるものが、言語の価値となる以前にあらかじめ人間精神の内につくられているものだとしたら、必ず起こるであろうことの一つとして、言語が異なっても諸事項は、正確に一致するはずである。」として主知主義を否定している。  
つまり観念の捉え方は、人それぞれ個人のレベルでは全く異なる、しかしこれが社会的なものに共有されるとなると言語化され、その民族、社会共通のものとなる。そこにおいては個人個人の観念なるものは無視され、その民族、社会共通なコトバと観念つまりラング
に、統一化され画一化され社会通念に収斂してゆくことは確かであるが、だからといってコトバが先にくる証とはならない。確かにコトバはそのコトバが属する民族、社会おいて統一化され画一化されることは確かだが、観念自体の捉え方も各民族、社会の自然的、文化的、社会的環境に左右され及びこれは民族の自然的、文化的、社会的環境にも関連があるのであるが、観念の要不要性にも左右され、また観念の捉え方の偶然性によっても左右されるものであり、観念の捉え方の恣意性とも言えるのであるが、観念なるものが先んじても、諸事項は正確に一致しないのである。
ただ組織化されたというだけで、組織化された観念ついて個々の純粋観念のほうが先に想起されることもあるのであり、「仮に、観念なるものが言語の価値となる以前にあらかじめ、人間精神の内につくられているものだとしたら、必ず起こるであろうことの一つとして、言語が異なっても諸事項は正確に一致するはずである。正確な照応などというものはないのである。」というソシュールの言葉は自家撞着なものとなる。
 主知主義、言語名称目録観でもよいのではないか、何か困ることでもあるのだろうか、次々と生まれる観念において、人それぞれ観念の持ち方は時と場合において異なるものであり、そしてもちろん民族、社会の中で統一化の方向を目指すが民族、社会間どうしでも観念の持ち方は異なるのであり、主知主義になったり言語名称目録観になったりするのである。    
かの有名なヘレン.ケラーがサリバン先生から水というコトバを教わった逸話は、言語名称目録観ではないのか。 
 コトバが生まれた時はもうすでに観念があるのである。つまり意味のないところにはコトバは生まれようがないのであり、観念のないところにはコトバはないのである。
 現在のコトバの使用の場においても、おうおうにして観念からである。
   
10 連辞連合について
「私が語るのは連辞においてのみである。そのメカニズムは恐らく我々が連辞の型を頭脳の中に持っていて、それらの型を用いる時連合語群を介入させているのである。」しかしディスクールというものは無限大であり無限の広がりや選択肢があるのであり、そもそも全ての連辞の型を脳内に持つこと及び連合語群を介入させることは、人間の脳をもってしては無理なことである。また人間はコンピューターではないのであり、全てのディスクールの連辞の型を脳内に持つこととは大容量の記憶や直列的な思考が必要であり、人間の脳はそのような仕方で働くようにはできていないのである。それにディスクールとはその場限りなものであり、かつフリーダムなものであり、必要に応じて概念を取り出してある話題や問題について会話や議論するのである。そしてその場合においては、心にうかんだ純粋概念を言語概念化したり、あるいはもともと言語概念を保持している場合はそのままの状態で話題や問題に沿って会話や議論するのであり、ディスクールを進めてゆくのである。つまり最初は純粋概念または言語概念からそれに関連する純粋概念または言語概念を次から次へ想起するものであり、いわゆるランカージュ活動なのであり、そしてランカージュ活動の結果が連辞なのである。あらかじめ決められた連辞の型全てを脳内に記憶しているわけではないのである。
 また連辞の型を頭脳の中に持つとは、連辞の型に単語をあてはめてできあがったディスクールを、ただ音声や記述に変えるだけのことであり、これでは録音機の再生や図書館と同じことではないのだろうか。
 人間のディスクールは、もっと自由でフレキシブルで能動的なものである。
ディスクールには、話し手書き手の側と、聞き手読み手の側に分類しなければならない。ディスクールにおいて話す場合と書く場合おいては、あまりコトバからは出発しないように思われる。基本的には純粋概念からである。そのほうが自然に思われる。目を見開けば外界の事物があり、文化的、社会的な人間の活動とそれらに関連する関係があり、それらの事象が目の前に見えるのであり、より直接的であり純粋概念からの方が想起しやすいのである。言語概念化をするとしても言語概念化はワンクッションおかなければならないのであり間接的であるからである。
 頭に浮かんだ純粋概念を言語概念化しディスクールへと進んで行く。そこには文法というものは関与しないのである。第5項目で述べたとおり、文法というものは、純粋概念の中にあり純粋概念を言語概念に転化した時に表われる概念特有の性質であり、もうすでにその筋書きが概念に組み込まれているのである。概念自体の付随的な形相として存在し、また虚構的な存在なのである。概念そのものとして一心同体なものとして融合しているのである。
 ただし当たり前のことであるが聞き手、読み手の場合はコトバから始まり、第4項目で述べた通りディスクールは進められてゆくのである。
 ソシュールは純粋概念を認めない、人はコトバがあって始めて概念があるとしている。
コトバがあってカオスからコスモスに移行するとしている。しかし心の中をじっくり観察してみれば良く分かるように、いちいち連辞の型など頭の中にいれてないのである。もし連辞の型が頭の中にあるとすれば「おはよう」、「こんにちは」、「お元気ですか」、「いい天気ですね」などの規範的ラングつまり慣用句である。ゆえに上記ソシュールの引用例は完全にまちがっている。            
 ここで言語が発話されまた聞き手が発話を理解するという、町田健氏の「ソシュール入門」よりかなり込み入った説明を紹介しておこう。
 「このことからソシュールは、人間がある言語を使って文を作る過程として、次のようなものを考えていたようです。ある状況を前にして、それをもとにして事柄を表そうとすれば、私たちは目的とする事柄にふさわしい意味を表す単語を選ばなければなりません。そういう単語の選択は、私たちが頭の中にもっている単語の体系を参照することで行われます。恐らくは、単語全体の体系の中から状況に応じて部分的な体系を取り出して、その部分的な体系に含まれるいくつか単語の中で、最も適切な単語を選ぶわけです。
 文を作るには主語と述語をはじめとして、いくつかの単語や形態素が必要ですから、このような選択が、いくつかの部分的な体系を逐次取り出すことで実行されることになります。 こうして選ばれた単語は、今度は、用いられる言語がもっている、文の構造を決定する規則に基づいて並べられ、最終的に一つの文が完成されるわけです。作られた文は、それを構成している単語や形態素の能記である音素列に対応させられ、その音素列が具体的な音声として実現されることにより、聞き手の耳に伝わっていきます。
 こういう具合に、人間が言語を使う際には、頭の中にもっている、その言語の体系と構造についての知識が、伝達しようと思っている事柄に応じて効果的に使われるのだろうと推測されます。
 伝達を目的として言われた文を理解する場合には、これとは逆の過程がたどられます。
具体的な音声を聞いた聞き手は、音素の体系についての知識を参照することで、音声を音素に対応させます。この方法で、ある音素列が得られるわけですが、聞き手は、頭の中にある単語の体系についての知識をもとに、音素列を区切って、それぞれの区切りを単語に対応させます。
与えられた音素列から得られたいくつかの単語の列は、その言語がもっている文の構造を作る規則に従っているはずです。ですから聞き手は、その規則についての知識をもとにして、単語の列が作っている構造を作り上げ、その構造に従って単語の意味を組み合わせて、最終的に音素列がどんな事柄を表しているのかを理解するわけです。」以上ことである。
 ここでは文章の流れに沿ってコメント付けながら検討することにする。
「このことから、ソシュールは、人間がある言語を使って文を作る過程として、次のようなものを考えていたようです。ある状況を前にして、それをもとにして事柄を表わそうとすれば、私たちは目的とする事柄にふさわしい意味を表す単語を選ばなければなりません。そういう単語の選択は、私たちが頭の中にもっている単語の体系を参照することで行われます。恐らくは、単語全体の体系の中から状況に応じて部分的な体系を取りだして、
その部分的な体系に含まれるいくつかの単語の中で、最も適切な単語を選ぶわけです。」
(ここまでについては、ある状況を前にして、それをもとにして事柄を表そうとすれば、私たちは目的とする事柄にふさわしい意味を表す単語を選ばなければなりません。とあるが、これはある状況を前にして、それをもとにして目的とする事柄にふさわしい意味を表す単語を選ぶとは、選ぶ基準となる概念を想定しているのであり、このことはソシュールが否定した主知主義及び言語名称目録観である。頭の中に持っている単語の体系を参照し、最も適切な単語を選ぶということであるが、私の見解では単語を選ぶわけではなく、第3項目で示したように純粋概念を言語概念に転化するのである。言語概念を想起した場合にも、言語自体は概念を保持しているのであり、単語の体系の中から状況に応じて部分的な体系を取りだして、その部分的な体系に含まれるいくつかの単語の中で、最も適切な単語を選ぶわけではないのである。)
 「文を作るには主語と述語をはじめとして、いくつかの単語や形態素が必要ですから、
このような選択が、いくつかの部分的な体系を逐次取り出すことで実行されることになり
ます。こうして選ばれた単語は、今度は、用いられている言語がもっている、文の構造を
決定する規則に基づいて並べられ、最終的に一つの文が完成されるわけです。作られた文は、それを構成している単語や形態素の能記である音素列に対応させられ、その音素列が具体的な音声として実現されることにより、聞き手の耳に伝わっていきます。
こういう具合に、人間が言語を使う際には、頭の中にもっている、その言語の体系と構造についての知識が、伝達しようと思っている事柄に応じて効果的に使われるのだろうと推測されます」。
 (ここでは、文を作るには主語と述語をはじめとして、いくつかの単語や形態素が必要ですから、このような選択が、いくつかの部分的な体系を逐次取り出すことで実行される。今度は文の構造を決定する規則に並べられる。ということであるが、第5項目で述べたように文の構造を決定する規則を認識する必要はないのであり、純粋概念を言語概念化する時に、構造はもうそこにあるのであり、また単語化したならば音素列は、もうその単語の発声の仕方の中に含まれており、すでに習得済みなのであり、音素列まで到達し認識する必要はないのである。音素列とは言語学的に、分析した区別にすぎないのであり、単語の音素列とは発声のなかにすでに組み込まれているのであり、音素列に変換する必要はないのであり、音素列というカテゴリーは、ディスクールとは異なった次元のものであって、単語の発声に対してなんら関与的ではないということなのである。また文の構造を決定する規則に並べたり、それを構成している単語や形態素の能記である音素列に対応させていたら、かなり複雑な言語活動となり、コミュニケーションや思考活動は困難なものとなるであろう。) 
 「伝達を目的として言われた文を理解する場合は、それとは逆の過程がたどられます。具体的な音声を聞いた聞き手は、音素の体系についての知識を参照することで、音声を音素に対応させます。この方法で、ある音素列が得られるわけですが、聞き手は、頭の中にある単語の体系についての知識 をもとに、音素列を区切って、それぞれの区切りを能記とする単語に対応させます。」
 (前に述べた通り音素列を区切たり、その音素列を単語の発声の仕方の中に対応する必要はないのである。音素列とは言語学者が学術的に分析した結果である、ということは音素列とは実際に真実としてそこにあるのであるが、言語活動の場では話者の意識にはのぼらないものである。音素列というものは、もともと単語の発声の中に組み込まれていて、すでに習得しているものであるから、これもまたそこまで到達する必要はないのである。)
 「与えられた音素列から得られたいくつかの単語の列は、その言語がもっている文の構造を作る規則に従っているはずです。ですから聞き手は、その規則についての知識をもとにして、単語の列が作っている構造を作り上げ、その構造に従って単語の意味を組み合せて、最終的に音素列がどんな事柄を表しているのかを理解するわけです。」
 (ここでも文の構造を作る規則は第5項目で述べたとおり必要はなく、その規則についての知識をもとに、単語の列が作っている構造を作り上げる必要もなく、その構造に従って単語の意味を組み合わせる必要もないのである。また仮に文の構造を作る規則が必要であっても規則に従っているものを、さらに単語の列が作っている構造を作り上げ、その構造に従って単語の意味を組み合わせるのは、二度手間であり説明上の必要で取あげたようには見うけられない。)以上この説明は誤りであるとしか言いようがない。ディスクールが成り立つのは、概念つまり自己の見解を持つことであり第3項目と第5項目に従って活動することである。この説明は特に文の規則(第5項目で述べたように文の構造を作る規則などないのであり、概念が形成されたとき文の構造が表されるものであり、あたかもそこには法則があるように見えるだけである。)と音素列(これも発話の音声を言語学者が、分析した結果に過ぎないものであり、一つの学問的形式に過ぎないものである。)という意味をなさないもので成り立っているのである。あまりにも言語という対象を演繹的に考え過ぎ、実際の言語の実態を見失っているものである。
 しかし当人は「説明がずいぶん抽象的なってしまいました。実はそれも仕方のないことなのでして、現代言語学では、今まで述べてきたような、文の産出と文の意味の理解のメカニズムを解明することに、今まさに取り組んでいる最中なのです。ですからまだよくわかっていないことも多くて、具体的な例を使って説明するのが難しかったということです。」とことわりを入れているのであるが。
 しかしこんな面倒な手続きはしないのである。上記の言語の発話と聞き手の側の発話の理解の仕方の文章を、私の考えにより変更をしてみたのだが、下記の通りとなる。
 「人間がある言語を使って文を作る過程として順序を付けて考えると、ある状況を前にしてそれをもとにして事柄を表そうとすれば、私たちは目的とする事柄にふさわしい純粋概念をもうすでに持っているのであり、それを言語概念化するとともに発話するのであり、またすでに言語概念化している場合はその言葉を相手に向かって発話するのである。また相手の発話を理解することは、相手の発話が何を語っているのか理解することであり、相手が発話する単語のならびから概念を読み取りディスクールを理解することである。」ここにおいては文の規則と音素列は前記のとおり考える必要はないのである。創られた文の規則は実態として独立したものとして、またア、プリオリなものとしては始めからないのであり、概念の中にその特質としてまた概念自体の筋書きとして存在しており、あたかもそこに規則が独自に存在しているように見えるだけである。ゆえに言語実践においては、文の規則を考える必要はなく、文の規則とは、文を発話した時に規則性が見られるというだけであり、学術的な研究結果にすぎないものであり、文を作ることにおいては、関与的ではないのである。また発話における発声の音素列とは、これもまた学術的な分析結果にすぎないものであり、このことは真実あるが、大人であるならばこの筋書きも習得済みであり、言語実践においては、もう発話の中に組み込まれているのである。またその両者は自然発生的に人間が獲得した事実を、後から学術的に分析したものであり、自然に獲得したものを無視し、学術的分析結果を押し付けようとしているものであり、ディスクールの要素とはならないものである。つまり概念の想起とは、外界の刺激、脳内の知識、感情等を起点として起こり、それに見合った第3項目で示した手順で言語転化されるものである。つまり純粋概念を見ることはすでに言語概念を見ていることなのである。

11 まとめ
 どのような高名な学者が書いた本でも、そのディテールを詳しく見るとはっきりしないところがあり、重箱の隅をつつくような感はぬぐえないが、そのところまでしっかりした理論でなければ理論として完全なものではない。つまり蟻の一穴から崩れるのである。
 特にソシュールの一般言語学講義は、口頭で教授したものを学生がノートをとったものと、遺稿集を基礎において書かれたものであり、また出版に至る複雑な経緯により、よけい複雑化をしてしまったのである。故丸山圭三郎氏についても、御苦労なさったのはよく分かる。もし故丸山圭三郎氏がいなければ私もソシュールの理論を理解できなかったのであるからである。私が行った批判は少しでもその理論を、不具合のない完全なものにする上で意味があるのであり、もしこれが修復可能なものであるならば、その理論はまた新たに進展するのである。また言語学を発展させるためには変化させ進展させるべきである。
 ソシュールの用語はかなりあり、ラング、パロール、ランカージュ、シニフィアンシニフィエシーニュと多彩でありかなりの造語を行っている。これを分析的に考え必要のないものは削除し、本来的に必要なものだけにすべきである。理論はより単純なものの方が良いのに決まっているのでありそうすべきである。まずパロールという概念は本来必要ではなく、パロールという概念はラングとの対置概念として、補助的な必要性だけになるのである。
 また連辞とは語というものは単体ではけっして意味を持たない、その単語を取り囲む単語群によって意味が左右されるとされている。つまりI saw a boy.とMy sawのように、しかし話し手の場合はそういうふうに把握されるものではない、これは同音異義語でありその単語を発するときはもうすでに純粋概念は、あらかじめそれと想起されているのであり、また言語概念を想起する場合でもあらかじめ表現しようとする言語概念は想起されているのである。前後の関係から単語の意味が決定されるものではあるが、同音異義語ではそうはいかないのである。しかし聞き手、読み手の側からだけならこの連辞は正しいものである。これはあくまで私ごとの考えであるが、今まで私が批判として上げた第8項目から第10項目までが、ソシュールの理論に変更をせまるかもしれない重要性をもつものになるのである。第8項目からは、ディスクールの所在の曖昧性から文法の問題とパロールの不必要性が持ち上がった。第9項目では主知主義、言語名称目録観の批判の否定つまり肯定によりソシュール主知主義、言語名称目録観への批判が崩れ去った。第10項目においては、文や文章の在り方として連辞、連合の不可能性が浮かび上がった。
 これはあくまで私見でありこの第8項目から第10項目が正しいものであるとは、第三者が決めるものであり、しかもあのソシュールに、ついては故丸山圭三郎氏、町田健氏に立ち向かうとは、大それたことのように感じるが、しかし何も言わないで、おとなしくすべきか問題提起すべきか迷うのであるが、何も言わなければ全ての人が何も言わなければ何も前には進まないのである。閉鎖的環境では進歩がないのである。

    
参考文献「ソシュールの思想」 丸山圭三郎著 発行年 2009年4月3日 
出版地 東京都千代田区一ツ橋2-5-5 出版社名 岩波書店
    
    「ソシュール入門」 町田健著   発行年  2003年9月10日
出版地 東京都文京区音羽1       出版社名 光文社
引用文献「名指しと必然性」 ソール A クリプキ著 八木沢敬、野家啓一
     発行年 2006年6月30日 出版地 東京都千代田区飯田橋2-11-3 
     出版社名 産業図書
    「論理哲学論考」  L ヴィトゲンシュタイン著 藤本隆志、坂井秀寿訳
発行年 1989年5月30日 出版地 東京都千代田区富士見2-17-1
出版社名 法政大学出版局
               
総括的まとめ
 今まで読んできた哲学書言語学書には、私の疑問である同じ意味を表す、純粋概念と言語概念という一元的でない事実の理論的統一及び言語概念の意味と表現面の恣意的関係つまり意味のない音と光の反射が必然的に意味を持つという、私が最も欲していた事柄に一言もふれていないのである。
 読んだ哲学書は主に分析哲学であり、フレーゲの「概念記法」に始まりラッセルへの記述理論である。ヴィトゲンシュタインの論理学を哲学した「論理哲学論考」と「哲学探究」であり、哲学探究では言語はゲームに似ているとした言語ゲーム理論である。次はクリプキの固定指示詞及び可能世界意味論、ア、プリオリ性、ア、ポステリオリ性、必然性、偶然性同一性の問題、デビットソンの真理条件法(If and only if)であるが、この中で印象深いのはラッセルの固有名詞論である。ラッセルは固有名詞の処理に苦労したようで固有名詞のほとんどは記述の束つまり確定記述であるということである。
また言語学においては認知言語学が、言語学の最先端をゆくということであるが、読んでみてイメージスキーマ、ランドマークとトラジェクター、メタファー、メトニミーなど新しい用語が出てくるが、まだ勉強不足であり、独学ではとうてい理解できないが、勝手に申し上げるところ、言語の縁辺にふれているだけであり、私が欲していた論題に踏み込んでいない様に見うけられる。
 なぜなのか、この基本的な事柄が全ての文献においてぬけているのである。
 その中でソシュール構造主義理論が、私の考えに一番近いものと思えたので、一年間仕事の合間や休日に、本が破れるくらいまた白い本が真っ黒になるまで読んだのである。おかげで全体像が見え理論に色々な矛盾点があること、私の考えに対して相容れないことが見えてきたのであり、またソシュール構造主義も完全ではないのであり少し書評を加えたしだいである。
 最後に哲学書言語学書を開いても縁辺ばかりつついている感がぬぐえないのである。
私が持っていた上記疑問に答えを出した文献は一つも無かったのである。これはいったいなぜなのか、そのようなことは当たり前すぎて問題としないのか、またこの問いが分からないのか、どちらなのか不思議でたまらないのが今の私の心境である。
                 

             2017/06/14
  M S